かつて大手商社でバリバリと働き、退職後も地域の役員を精力的にこなしていたAさん(六十八歳)の事例は、軽度認知障害がどのようにして本人のプライドと生活を揺るがし始めるのかを示す典型的なケースです。Aさんの最初の異変は、退職後に趣味として始めた確定申告の電子申請ができなくなったことでした。以前の彼であれば、新しいシステムの導入も難なくこなしていたはずですが、その年は何度マニュアルを読んでも手順が頭に入らず、入力ミスを繰り返した末にパソコンを投げ出してしまいました。本人は「このソフトの作りが悪いんだ」と怒りを露わにしましたが、それは明らかに脳の「作業記憶(ワーキングメモリ)」の容量低下を示す兆候でした。続いて、地域の自治会の会計報告でもミスが目立つようになりました。数字の計算そのものは正確であっても、領収書を日付順に整理したり、科目を正しく分類したりといったマルチタスクの処理に異常な時間を要するようになったのです。また、会話の中で特定の単語が出てこなくなり、「あそこの、あの店の、あの料理」といった指示代名詞が頻発し、話の論理構成が以前よりも単純化していく様子も観察されました。家族が最も心配したのは、Aさんが徐々に社交性を失っていったことです。あれほど好きだったゴルフの誘いを断り、日中もリビングでぼんやりとテレビを眺める時間が増えました。これは「抑うつ」や「意欲の低下(アパシー)」と呼ばれる症状で、脳の意欲を司る回路に不具合が生じていることを反映しています。Aさんの場合、幸いにも奥様が初期の段階で「性格の変化」と「複雑な作業の回避」に気づき、専門病院の受診を促しました。神経心理学テストの結果、Aさんの記憶力は年齢相応でしたが、注意分割能力と遂行機能において顕著な低下が認められました。医師はこれを「非健忘型MCI」と診断しました。Aさんのケースで特筆すべきは、診断後の環境調整です。医師は彼に、複雑な事務作業を無理にこなそうとするのではなく、スマートフォンやタブレットを「外部脳」として活用するトレーニングを勧めました。また、毎日一時間の速歩運動と、同年代の友人と囲碁を楽しむ活動を再開させました。これにより、脳内の神経栄養因子が活性化され、一年後の再検査では、低下していた機能の一部に改善が見られました。Aさんの事例が私たちに教えてくれるのは、軽度認知障害の症状は必ずしも「忘れっぽさ」だけではないということです。仕事や家事における「段取りの崩れ」や「社交性の欠如」こそが、脳の叫び声である可能性があります。かつての能力が高かった人ほど、機能低下を隠そうとしたり、自尊心を守るために怒りを選択したりしがちですが、医学的な理解を持って接することで、彼らが再び自らの人生の舵を握り直すサポートが可能になるのです。早期発見は、単なる病状の把握ではなく、その人の尊絶を守るための具体的なアクションなのです。
複雑な事務作業ができなくなった定年後の男性に見る症状の進行事例