都内のメーカーで営業職として働く三十代のSさんは、責任感が強く、上司や顧客からの信頼も厚い、いわゆる「デキる社員」でした。しかし、ある夏の朝、彼の日常は唐突に断絶しました。いつものように満員電車に揺られていた際、急に吐き気に襲われ、続いて心臓が喉から飛び出すような激しい鼓動が始まったのです。周囲の音が遠のき、天井が回り、彼はその場に膝をついてしまいました。幸い、周囲の乗客に助けられて駅の救護室へ運ばれましたが、Sさんは「自分は重大な脳の病気になったのだ」と確信していました。病院の脳神経外科でMRIを撮りましたが、結果はどこも異常なし。医師からは「ストレスかもしれませんね、一度ゆっくり休んでください」とだけ言われ、Sさんは戸惑いました。彼は自分がストレスを感じている自覚が全くなかったからです。それからのSさんは、電車に乗ろうとするだけで足がすくみ、動悸が始まるようになりました。営業車を運転していても、高速道路でトンネルに入った瞬間に息が苦しくなる。大好きだった仕事が、いつしか「恐怖の戦場」へと変わってしまいました。彼がようやく心療内科を訪れたのは、倒れてから一ヶ月後のことでした。心療内科の医師は、Sさんのこれまでの働き方や、無意識に押し殺してきた感情、そして「弱音を吐いてはいけない」という彼自身の強い呪縛を丁寧に紐解いていきました。診断は典型的なパニック障害でした。Sさんにとっての「何科に行くべきか」という問いへの答えは、自分の内面にある過剰な防衛反応を正しく認識させてくれる、この場所でした。治療は、脳の不安回路をなだめる薬物療法と並行して、理学療法士による正しい呼吸法の習得、そして少しずつ電車に乗る時間を延ばしていく行動療法が組み合わされました。医師はSさんに言いました。「パニック障害は、あなたがこれまで頑張りすぎて、身体のシステムが『もうこれ以上は無理だ』と発してくれた安全装置の作動なんです。故障ではなく、正常なアラートなんですよ」。この言葉が、Sさんの自尊心を救いました。彼は現在、一時間の通勤も平気になり、再び営業の第一線で活躍していますが、以前のような無理はしません。自分の体調を客観的に管理する「セルフモニタリング」の技術を習得したからです。この事例が教えてくれるのは、パニック障害とは単なる「精神の弱さ」ではなく、環境と心身の不一致が引き起こす物理的なエラーであるということ、そしてそれを解決するためには、身体と心の両方を専門とする心療内科の助けが不可欠であるということです。Sさんのように、社会の最前線で戦う人々こそ、心療内科という「心のピット」を賢く活用し、自分自身のエンジンを長く、健やかに回し続ける知恵を持つべきなのでしょう。
満員電車で倒れた会社員が心療内科で見つけた再起への手がかり